沖縄のお笑いは面白くない?

唐突に、そして強引に、我が故郷沖縄のお笑い界に一石を投じてみたいと思う。 

 

はっきり言って、私は沖縄のお笑いは面白くないと思っている。

 

それは特にO-1グランプリ(沖縄1グランプリ)なる、沖縄ご当地お笑いコンテストを見ているときに感じる。そこで行われている惨状は、恥ずかしくて見ていられない時すらあるほどだ。

 

そんなひどい感想には、あまりにも個人的な偏見が含まれていると思っているそこの心優しき人も、「ありんくりん」というお笑い芸人は存じあげないであろう。なんとその得体のしれないコンビが0−1グランプリを3度も制覇しているのである。由々しき事態だ。

 

どのように沖縄のお笑いが面白くないかは、追々解説していきたい。

 

ありんくりん」はどこぞの弱小事務所ではなく、れっきとした吉本芸人である。ただし、東京でも大阪でもなく、よしもと沖縄である。そもそも沖縄にも吉本があったことに驚かれる方も多いと思う。沖縄県民でも知っている芸人は片手で数えるほどしかいない。

 

ちなみに、「ガレッジセール」や「スリムクラブ」などの、世間一般にも認知された沖縄芸人はともに東京吉本所属である。結局のところ、沖縄の才能がある人たちは活動拠点を本土に移してしまうことが多い(まあこれは、世界中の田舎が同様の課題を抱えているのだろうが)。

 

この文章で馬鹿にさせていただくために、「ありんくりん」の情報を調べていたところ、興味深い事実を発見した。

 

おそらく誰も興味ないであろうが、「ありんくりん」はもともとトリオだった。しかし、一人のメンバーが脱退し、今のコンビになったそうだ。

 

大事なのはその解散理由である。トリオから抜けたメンバーは本土風の笑いがしたかったらしいが、残りのメンバー、つまり現ありんくりんの二人は、沖縄らしいお笑いに拘ったそうだ(Wikipediaより)。

 

音楽性の違いというと聞くと、私は売れないバンドの内紛を想像して素敵な気分になるが、お笑いの方向性の違いというのも、なかなかどうして負けないくらい素敵なものだ。いい大人が自分たちのネタの笑いどころで真剣に議論し顔を真っ赤にしている姿を想像するだけで、つい、にやけてしまう。そして、そんな人々はいい感じに人生に迷っているなと思う。

 

消費者たる我々の目には、成功事例の眩しい側面しか見えない芸能界においても、こうした無駄に拗らせた人間がたくさんいる。その人々の屍が、一握りの成功者をうむ。それは現在の資本主義社会の宿命でもある。成功者と失敗者の違いなんて、小泉風にいうと、成功したか失敗したかの違いでしかない。

 

まとめると、東京や大阪だけでなく、ここ沖縄にも、自分の可能性を信じながら何者かになろうともがいている夢追い人がいる。そこには「ありのままの自分ではなく、何者かになりたい」という、普遍的な人間の悩みに加えて、もう一つ、相反するポリシーを抱え、素敵に拗らせた人間同志の決して埋まらない溝がある。

 

その相反するポリシーを抱えた両者とは、伝統ある本土のお笑いに近づきたいとする者と、沖縄独自のお笑いを確立させたいとする者だ。

 

まさか「ありんくりん」という謎のコンビから、私の語りたいテーマがきれいに導かれるとは……。私の考察は実際の芸人にも適用できると、己の理論の妥当性を誇るべきか、くすぶっているお笑い芸人と同レベルと悲しむべきか、微妙だ。

 

 

大阪・東京のどちらでもなく、敢えてよしもと沖縄に所属するということは、よくてご当地テレビお抱え芸人に甘んじる選択に他ならない。よしもと沖縄の歴史が浅いこともあるが、そこから全国に羽ばたいた芸人は存在しないし、私が現状を見る限り、今の若手にもその萌芽すら見受けられない。

 

その原因を自分なりに調べていたところ、O-1グランプリに出場している多くの芸人が、本家のM-1グランプリにも出ていることが分かった。それも殆どがネタを使いまわしの上で。その事実を知って、私はため息をつきながら、「そういうところだよ」とその沖縄芸人たちの肩を叩きたい気分になった。

 

沖縄芸人は本土風のお笑いをするにしても、沖縄らしいお笑いをするにしても、どちらにせよ、すべてが中途半端に見える。

 

東京や大阪の芸人がやるようなスタンダードなネタを沖縄芸人がやると、積み上げてきた経験の差が如実に現れ、ただ芸人っぽいものを集めてまとめたようなネタが見られる。それはプロを名乗りつつも、芸人の真似をしているだけだ。

 

これは養成所のライブや大学の学園祭のお笑いライブにも同じ感想になるので、沖縄の芸人特有のものではなく、単純な技術不足と恥ずかしさを捨てきれていない情けなさからくるものだろう。誰しもはじめから立派な漫才はできない。売れている芸人でも養成所時代のネタなんて、黒歴史として封印していることのほうが多い。

 

出来ないことは問題ではない。失敗をしないと成長もない。

 

沖縄の芸人が問題なのは、東京や大阪の芸人がやるようなスタンダードのネタから逃げて、安易に沖縄にすがることだ。それが非常にダサい。

 

自分たちの個性を模索するのは結構なことだが、彼らの選択はただ勝負から逃げているように見えてしまう。若者に人気の動画サイトで中高生向けにあるあるネタでバズっても、袖の芸人仲間からバカにされるのと一緒である。

 

それはおそらく、本人たちも自覚していないことだろう。彼らにこんなことを言うと、顔を真っ赤にし、自分たちは沖縄を愛しているから、沖縄らしいお笑いをすると言うだろう。

 

もしかしたら、匿名で攻撃している私に向かって、この内地かぶれは黙ってろ! と叫びだすかもしれない。

 

ありんくりん」本人でもないし、何ならファンですらない私が、思い切って彼らがいう沖縄らしさを、彼らのネタから抽出しようと試みたとき、それは非常にがっかりしたものになった。その想像力の無さに落胆した。

 

彼らが言う沖縄らしいネタには、

 

沖縄県民の見た目ネタ(顔が濃い、髭が濃いなど)

・強烈な訛りと方言(ボケが典型的な沖縄訛りで多くの若者が普通は使わない方言を多用。ツッコミはアメリカとのハーフでこちらも訛っている)

・どこの地元にも存在するような、県民だけに伝わる細かなあるあるネタ(どこどこの交差点は交通ルールが分かりづらい、など)

 

しかない。

 

これらを、沖縄らしさと呼ぶのなら、まごうことなき沖縄県民の私だが、別に沖縄らしくなくていいと思う。

 

オリジナルのネタなんて一つも書いたことない私には、ネタづくりの苦労は想像でしかない。おそらく、大会で勝負できる新ネタなんて簡単にはできないのだろう。言いたいことは分かる。

 

私だって、漠然と創作への憧れを燻らせた結果、ウェブ小説という現代の闇に肩までどっぷりハマった身だ。創作の苦しみはわかっている。あんな苦行、全てに時間がかかって仕方がなく、損得勘定で考える常識人には、とてもやってられない(承認欲求を満たしたいだけなら圧倒的にコスパが悪い)。

 

そもそも何かを生み出すことは、押し並べて苦しいものだと思う。圧倒的供給過多で、考えられるほぼすべてのパターンが出尽くした現代において、誰も到達していないフロンティアなんてものは、もうどこにも残っていない。あるのは、そんな苦しみを正面から背負い、それでもなお、もがき続けることだけだ。

 

いつの間にか、書いている本人だけが盛り上がり、熱いのかダサいのかわからない、己の美学をぶちまけてしまった。

 

長々と悪口を書いていて気分を害した人もいるだろう。信じてもらえないかもしれないが、私は特別「ありんくりん」個人が嫌いなわけではない。おそらく私は思考停止が嫌いなのだろう。私が挙げたような安易な沖縄ネタではなく、新しい沖縄のお笑いを目指して欲しいと願う。

 

私などはただの「自称お笑い評論家」に過ぎない。「面白さ」という、答えのないものを分析し、そして自分なりの面白さの型を形成したい、そんなよくわからない病に犯された悲しき平凡な人間である。

 

こんな分析が私なりの「もがき」であり、私が感じる故郷沖縄のお笑いに対する違和感を書き記した。