本のタイトルと、なぜか創作の苦労。

吾輩は猫である」と「猫伝」。夏目漱石は最後までこの両者で悩んでいたが、弟子との相談の結果、みなさんも知ってのとおり、「吾輩は猫である」が選ばれ、「猫伝」は歴史の闇に消えた(後年ダサい失敗例として名は残しているが)。もし「猫伝」が採用されていたら、かの国民的小説も現在の地位は獲得できていないかもしれない。いくら中身が素晴らしくてもタイトルが平凡だと目立ちにくく、逆にタイトルがオシャレだと中身を読まれなくてもそのタイトルだけで一つの魅力となる(「吾輩は猫である」は中身も傑作だが)。

 

ということで、今回は本の「タイトル」について語っていきたい。

 

一般的に指摘されることとして、「本のタイトルが年々長くなってきている」ということが挙げられる。その顕著な例がネット小説である(ネット小説がそもそも本なのかは一旦置いておく)。あるネット記事によると、一番タイトルが長い小説でなんと、134字もあるらしい。もはやタイトルの概念すら考え直さねばならない状況である。

「ネット小説なんて所詮アマチュアがネットで駄文を垂れ流している代物だから、まともなタイトルもつけられない」と、ネット小説を軽んじて嘲笑することは容易い。ただし、そんな人向けに一応説明しておくと、ネット小説は内容をタイトルで全部紹介しないければネットのゴミの山の中に埋没してしまうという悲しき事情がある。もしかしたら有象無象のハンドルネームを背負った人々は、血の涙を流しながら、己の小説のタイトルをタイピングしているのかもしれない。

 

一方、文豪たちの代表的な小説は、「こころ」「舞姫」「檸檬」「金閣寺」など、タイトルが簡潔な物が多い。このような単語だけのストロングスタイルは、今はあまり目にしなくなった気がする。

 

いきなりだが、例えば私がネットにこんなタイトルの小説を投稿したとしよう。

「群生」。

そして、「群生」という適当に出したお題に対して、3分で考えた設定が次のとおりである。

 

群れて生きることを批判し、もっと個性的に生きろと話す人を馬鹿にしている人物を、逆に冷たい目線で見ている主人公が、ある人物と出会い自分だけの生き方を目指しながらも結局バランスの問題だと気づき、、、。

 

どうだろうか。「群生」というタイトルだけで、この設定が読み取れるだろうか。

何が言いたいかというと、タイトルというのは、読み手のためにつけられるもの、ということだ。読み手にその本を読んでみたいと思わせるタイトルでなければならない。「群生」というタイトルを見て、「これはなかなか興味深いぞ!」となるある種の訓練を積んだ読み手ばかりなら、「群生」もまた素晴らしきタイトルである。しかし、今のネット小説界隈でこんな小説が受け入れられる場所があるだろうか。否、ない(反語)。

 

要は需要と供給の問題である。これぞ市場経済の鉄の掟。

 

と、頑張った中学生が導いたような結論を出したところだが、こんな結論は面白くともなんともない。それっぽい風にまとめただけで内容はすっからかんである。というか、結論でもなんでもなく需要側目線で述べている一つの見方でしかない。

 

私だって、自分で書いた文章は誰かに読んで欲しいと願う小市民なので、読み手のことは考えている。もっと明け透けに言うと、文章で人気者になりたいという気持ちはある。ただそこにこそ、落とし穴がある気がする。

 

私がつけた一番長いタイトルの小説は、悲しいかな、一番人気がなかった(〜〜〜な世界で、自分だけが〜〜〜だった件。黒歴史なので伏せ字で)。また、若者向けを意識した一番ライトなタイトルは、ネット読者の傾向を調査しその傾向に合わせたはずが、あまり評判が良くなかった(「〜〜〜荘は〜〜〜ない」。成功しなかったものの、タイトルが否定形で終わるのは一つの確立したオシャレな形だ今も信じている)

 

一生懸命書いたものが日の目を浴びないのは、すべからく悲しいが、特に、「〜〜〜荘」の惨敗は、普通に悔しい。時間があれば大幅な修正の上で再挑戦したい。

 

では、どんなタイトルが良かったかというと、あまり読み手のことを意識せず、自分が好きだと思ったことだけを詰め込むタイトルである。これはおそらく熱量によるものだろう。自慢になるかはわからないが、これは誰も読まないだろうなと覚悟した、書きたいことを真っ先に書いた初めての長編小説は、そこそこ有名なネット小説サイトのニッチな純文学よりのジャンルで日間1位、週間2位を獲得することができた。

 

実際に色々なやり方でタイトルを決めて、ネットに投稿して気づいたことは、書きたいものが先にあって最後にタイトルを決めるか、それとも「群生」で先程やったように、まずタイトルを先に決め、漠然としたイメージから詳細を決めていくかは、大きな違いがあるということだ。私の場合、前者はそれなりに成功し、後者は綺麗に失敗した。

 

文章を書くに当たって毎日何かしら書くことは重要だと思う。その作業は筋トレに近い。ただ結局無理やりひねり出した文章は自分で読んでも圧倒的に面白くない。まずは溢れんばかりの書きたい欲求が必要だ。一端のアマチュア物書きでしかない私などは、好きなように気楽に続けることこそ一番大事なんだと、世界中で何番目に到達したかもわからないような境地に、遅ればせながら到達した次第だ。

 

「情熱をずっと持ち続けることが才能である」

 

飽き性である私は最近この言葉の重みが分かった。将棋棋士羽生善治も似たようなことを言っていたし、某有名テニス漫画も最後ははじめの頃のテニスが好きで好きでたまらなかったときの境地を思い出し覚醒することでラスボスを倒していた。

 

当初は、好きな本のタイトルを紹介するはずが、いつの間にか「タイトルの付け方」、そして「創作論」の議論に迷い込んでいた。着地点が大幅にズレたことはご愛嬌ということで。

 

大分長くなったため、本のタイトルの分類の話は次の記事に回すことにしたい。

 

ではでは。

 

 

 

 

本にある「はじめに」の機能と「おわりに」への愛

本を立ち読みして、購入するかどうかを決めるときに、私は「はじめに」を重要視している。特に新書の場合当たり外れが激しいので、決してタイトル買いはせずに、必ず「はじめに」をチェックする。

 

「はじめに」の段階でその筆者の文章力はわかるし、サービス精神のレベルもわかる。

 

一番当たりなはじめには、「ちゃんとした文章力で書かれた興味を引き付けられる内容かつ、なんとか分かりやすく噛み砕いて面白く説明しようとしている工夫がみられる」ものである。中公新書に多いのだが、学者の論文をそのまま分厚い新書にしたものは意外に地雷である。まあ、内容がペラペラで何も頭に残らない本よりはマシなのだが。

 

はじめにはいわば、その本の当たり外れ判定機の役割を果たしている。ちなみに、最近は積んでいる本が多すぎることもあって、本屋ではじめにを読んで大体の内容を掴み、本編は長すぎるためにそっと本棚に戻すことが多い。

 

「おわりに」は、最後のボーナスみたいなものである。おわりにまでしっかり読み切っている本というものは、そこまで読めているということで、本編の面白さが保証されている。よって、好きになった本の作者が唐突な自分語りを始めても、全然読んでいられる。それどころか、熱に浮かされたような文章によって、その情熱を感じたい。ありきたりな謝辞などはいらない。尖った文章を求めている。

 

そして、最後の締めとして、「家族団らんの笑い声が絶えないリビングにて」とか、「茜空に染まった故郷の海を眺めながら」とか、臭いセリフを残して欲しい。身を削ったおわりにを読んでいるときが、一番その作者の深い部分に触れている気がする。

 

私ほど「おわりに」に拘っている人は少ないと思う。世間ではないがしろにされがちだ。もし、少しでも興味を持ったのなら、自分の好きな本のおわりにをもう一度読み直してみて欲しい。

最近1年経つのが早すぎる 〜大人と子供の時間論〜

最近1年経つのが早すぎる。年々加速度的に早まっている気がする。令和もすでに5年目を迎えるらしい。このままだと平成生まれが時代遅れになる未来もそう遠くないのかもしれない。

 

そこで今回は、大人と子供の時間について考えていきたい。

 

一般的には子供より大人のほうが時間に余裕がなく忙しいと言われている。その一般論にちょっと疑問を呈したい。みなさんが思っているより現代の学生は忙しいと思う。ただし、人生の夏休みと言われて怠惰な生活を送るくされ大学生・大学院生はこの持論に含まない。あの人種はダラダラ空虚な時間を消費する定めなのだから。

 

本物の社畜のスケジュールは書くのもはばかられるほどの代物なので、今回は忙しい中学生だけ紹介する(中学生は忙しいといったが本物には勝てるはずがない)。

 

中学生は毎日8時前には学校に来る。会社と大差ない。そして6時間の勉強。勉強の楽しさに目覚めている中学生などそこらへんのガチャの当たりキャラより珍しいので、この時間は仕事みたいなものだ。その後部活、または習い事。好きで始めたはずのこれらのことが苦痛に変わるのは誰しもが通る道だろう。部活終わりに塾に行く生徒も、今どき珍しくない。そんな生徒が帰る時間は22時を超える事もある。まだ体もできていないのに大変だ。

 

そんなハードな生活を送りながら、10分しかない休み時間も友達と遊び、昼休みに校庭でサッカーなどをして走り回るのだから、中学生の体力は恐ろしい。いや、純粋な体力というよりは、秘めたエネルギーとでも言うしかないものを中学生は持っており、体中を探してもどこにもやる気スイッチなどは見つからない私などは、圧倒されてしまう。

 

私の情けない初老のようなコメントは忘れていただくとしても、こう振り返ると中学生の忙しさがわかってくれたことだろう。ただし、自分の中学だった頃のことを思い出すと、時間に追われているという感覚は皆無だった気がする。むしろやたら一日が、もっというと時間が長かったような……。

 

そんな一個人の平凡な疑問は、既にある哲学者が解答してくれている。

 

それはジャネーの法則と呼ばれるもので、「主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く感じられる」という現象を指す(Wikipediaより)。これは相対時間が関係している。

 

例を示すと、12歳の時の一年は12分の1だが、24歳の時は24分の1、60歳の時は60分の1となる。るまり、歳を重ねるごとに己にとっての1年の割合は小さくなる。よって、年を重ねると一年の体感時間は短くなる。

 

その理論で考えると、例え100歳まで生きる人でも、人生の体感時間の折り返し地点は20歳だそうだ。

 

なんと恐ろしい。私はまだ若いつもりだったが、とっくに人生の半分を終えているのかもしれない。


「時間は全員に対して平等ではなく、あくまで相対的なものに過ぎない」というのは、アインシュタイン相対性理論を聞き齧った知識での私の理解だが、こうした科学が解き明かした直感と異なる不思議な現象には驚かされてばかりだ。

 

また、往年の名曲で「青春時代は夢なんて後からほのぼの思うもの」という歌詞があるが、20代中盤の私は、体感時間ベースで考えると、そんな歌詞を噛み締める年齢になったということだろうか。

 

しみじみとおっさん臭い講釈を垂れてしまい、今をきらめく中学生の少年・少女には面白くない話だったかもしれない。

 

だが、ひとつだけ意識して欲しいのは、君たちの親、そして先生たちも皆、昔は子供だったということだ。それはありふれたメッセージかもしれないが、やはり普遍的な輝きを持つ。

 

また、自分よりお年を召した方にも、「何だこいつは、まだ若者のくせに」と怒られそうだ。人生死ぬまで青春というのりのおやじバンドが今も生き残っているかは知らないが、個人的には年を重ねるとそれ相応の変化を辿っていきたいと思う。

 

しかし、最近思うことは、精神年齢がある一定の年齢で止まる大人があまりにも多いということだ。私の好きなエピソードで、オードリー若林が40代になってからハマった遊びのバスケではしゃぎすぎた結果、左膝の靭帯を損傷する大怪我を負ったというものがある。その後「心の中にいつまでも男子高校生の自分がいる」的なコメントを残していた。

 

私の母親などは「今も心はまだ30代」と言ってはばからない。恥ずかしい限りだが、それくらいの厚かましさの方が、本当に若くいられるかもしれないと、暖かい目で何も言わず見守っている。

 

結局何が言いたかったのかは、自分でもよくわからない。

 

実際の年齢と体感年齢の差がこの記事の一番ポイントになる気はする。

 

最後に、こんな私も、いきなり「体感年齢ベースだとあなたは中年です」と切り捨てられて納得できるほど、まだ老け込んではいないつもりだ。

 

今年度のTo doリストと、ブログの企画案

友人と一緒に今年度のTo doリストを作った。友人曰く、そのリストを共有し、進捗状況を報告し合うと効果的であるそうだ。謎の英語論文が一緒に貼られてあったので、学術的なデータに基づいた説らしい。言われてみれば、このことを何十万というお金を払って行っているのがライザップなのかもしれない。

というわけで、私達も実際にTo doリストを作った。その中で、何かしらの文章をお互い毎日書くことに決めた。いわば修行である。書く内容として、友人は何ヶ月と放置してある小説を、私は本当に最近始めたこのブログを選んだ。

今まさに早速実践しているのだが、このブログの方向性すらまだ決まっていない事に気づいた。

どうせ誰にも読まれず自己満足の世界なので、あえて雑多にぐだぐだと書いていくことも一興である。まあ、現実はそうなるだろう。

ただし、ある程度企画を生み出したいという思いはある。今回はその案を書き留めておくことにする。企画案に目を通し、面白そうなアイデアをコメントで提供してくれるん妖精並みの希少な人物を募集中である。

 

企画案

・大人の読書感想文(大本命。もうすでに一作投稿済み)

・おしゃれなタイトル1グランプリ

(存在の耐えられない軽さ。砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけないなど)

・無責任な作家批評。キャッチコピーを添えて。

(日本人の国語の先生、夏目漱石。村田沙也加は逆張りがしたい。など)

・好きな〇〇を語るだけシリーズ

・自称お笑い評論家は、かく語りき(沖縄のお笑いについては投稿済み。カペポスターなどの推し漫才師のネタ分析などもやってみたい)

・自分の作詞を自分で解説するシリーズ

youtubeのコメント欄での歌詞考察を自作自演で行ってみた件)

 

とまあ、このように整理すると、まだちゃんと形にしていないアイデアがたくさんあることに改めて気づく。情熱と時間が許すのなら毎日少しづづ形にしていくので、少しは期待していてほしい(特に自分自身が)。

 

 

 

大人の読書感想文〜ペンギン・ハイウェイ〜

今年も夏が来た。燦々と照りつける太陽が眩しい。まさに夏の始まりのような日。そんな日に、僕はペンギンハイウェイを読んだ。

 

そしてその本を読みながら、「夏」についてと「子供と大人」について考えた。

 

ペンギンハイウェイの主人公アオヤマ少年は、真面目ゆえにどこか他の人とズレている研究者肌の小学4年生。まごうことなき子供だ。

 

対して、彼の物語を読んでいる僕は、まだ子供でいられた時代の香りを嗅いでいる20代中盤、もう年だけは立派な大人だ。

 

やっと体の成長に心が追いついてきたのか、今の僕は、それまでの子供目線だけでなく子供を見守る大人目線、そんな二つの目線が交わり融合する不思議な感覚を覚えている。



ペンギンハイウェイは、タイトルのとおりペンギンが出てくる。そしてそのペンギンは歯科医院のお姉さんの不思議な能力で誕生したものだと分かる。

 

なぜペンギンが誕生するんだろう。お姉さんって一体何者なの。次々に起こる謎、そして事件。一言で表すなら、不思議なSF要素満載、アオヤマ少年の一夏の冒険譚。

 

それがペンギンハイウェイである。

 

ペンギンは可愛い。お姉さんも可愛い。そしてなにより、お姉さんとアオヤマ少年のやりとりが可愛い。甘酸っぱさを煮詰めて、爽やかさをまぶしたみたいな描写を読みながら、少年の淡い恋心が眩しかった。

 

そしてそんな物語の季節は、夏じゃないといけないと思った。



思えば僕は、夏のエネルギーを正面から受け止めたことがない。子供の頃の僕は、どの集団にも一人はいるような、どこか冷めていて、少し捻くれた少年だったから。故に、暑く(熱く)燃えるような夏が素晴らしいなんていう感想を、中学生の頃の僕は少しも共感しないだろうし、2年前の一番学問に被れていた僕が見たら、浅いしょうもない意見だと鼻で馬鹿にしそうである。

 

だが、そんな捻くれたものの見方では結局何も成し遂げられはしないのではないか。大人たちは夏をそんなに意識しないで過ごしている。いくつもの夏が過ぎ去って、一つ一つのかけがえのなさはとうに失われてしまった。忘れているんだ僕たちは。夏が持つドキドキを。なんでもできる気がしていた無敵感を。取り戻そうじゃないか、あの頃の無垢な心を。

 

などと、わざとらしく大袈裟に夏と少年の心の素晴らしさを啓蒙してみせたが、別に今の僕だって、こんな使い古された啓発を真に受けているわけではない。

 

勘違いしてほしくないが、僕は殆どの人にとって、煌びやかな夏が妄想の産物でしかないことをちゃんと分かっている。

 

そもそも暑い夏より涼しい秋のほうが普通に好きだ。夏の象徴の海だって、もし張り切って出かけてもクロールで10メートルも泳げば何もすることがないことに気づいてしまう。夏に無理やりはしゃいでみても虚しいだけで、強引に夏を楽しもうとする人種には哀れみすら感じる。

 

何を隠そう、まだまだ僕は、人生そんなもんだよねと、斜に構えている方の人間だ。

 

僕がペンギンハイウェイから受けとったのは、充実した夏を送らなきゃなんていうダサい強迫観念ではない。

 

それはもっと気楽なもので、夏の爽やかさとでも呼べるもの。暑い日差しの中で受ける風の気持ちよさが、この爽やかさを一番表しているのかもしれない。なんて少し詩的すぎるだろうか。

 

次は「子供と大人」について。

 

アオヤマ少年はクラスの周りから少し変なやつとして扱われている。しかし、そのことを気にしている様子はない。彼はみんなが怖がるガキ大将にも平然と自分の意見を言える。

 

アオヤマ少年の行動の指針は、世間の常識ではなく、溢れ出る好奇心だ。

 

アオヤマ少年の好奇心を象徴する重要アイテムが、父親から買ってもらった一冊の研究ノート。そのノートを抱え、己の好奇心のままに無我夢中で謎に立ち向かうアオヤマ少年の姿勢は、なんて尊いものなんだろうか。そのノートで行った研究こそが、きっと彼がこれから進む道を示してくれるはずだ。僕にはそんな確信がある。

 

大人になって、過ぎ去った時を眺めると、子供でいられる時期は短い。

 

少年老いやすく学なり難し、だけど学ぶことは素晴らしきことかな。

 

僕は、雑多だけど決して蔑ろにできない日常に縛られることなく、自由に学問を探求できるアオヤマ少年のことが、素直に羨ましかった。

 

そして、もう今の僕はもう、そんな子どもたちを見守る大人になったんだと、今更ながら思った。

 

大人のあり方はいくらでもある。きっと正解なんてない。

 

あるのはこうありたいと願う姿だけ。

 

そして、ペンギンハイウェイの主人公、アオヤマ少年も、そんな大人になると思う。

 

己の純粋な好奇心を失うことなく、楽しんで学んでる姿を子供に見せれる大人に。

 

そうか。今の僕はそんな大人になりたいのか。

 

笑ってしまうが、ひねくれた僕は、ペンギンハイウェイを読んで、また、爽やかな夏の力を借りて、こんなあまりにも真っ直ぐな感想を抱いたのだった。

大人の読書感想文

読書感想文というと、マイナスなイメージしかない人が多いと思う。かくいう私も学生の頃は非常に面倒くさがっていた記憶しかない。それはおそらく、やらされている感が強すぎたからだと思う。

 

近年Twitterでも読書アカなるものが存在し、己の読書数でマウントを取ることに躍起になっている悲しき人々も散見される。偉そうなことを言っている私も、自己承認欲求とかいう悲しきモンスターを従えつつ、一時期読んだ本を紹介していた時期がある。その取組から得たものは特になく、時間を無駄にした印象しか残っていない。

 

「何を読んだか」よりも「何を考えたのか」のほうが遥かに大事だと、遅まきながら気づいた形である。そこで思い出したのが「読書感想文」である。

 

いざ書いてみると、誰からも評価されることがなく自由に書ける読書感想文は、表現形式として優れていることがわかった。大人になった今の全力で読書感想文を書くことで、自分の成長というかただの変化というか、そういったものが顕著に現れることも面白い。

 

ただの感想文にならないよう、構成にも気を使い、納得できる作品ができたと自負している。ただしいかんせん時間がかかる。好きでたまらない本がある人にのみ、おすすめできる方法ではあるが、興味のある人は自分の全力を試すつもりで挑戦してみてほしい。

ズレてるとはなにか〜パン屋と呼ばれた友人〜

全然いじめられているわけでもないのだが、みんなからあいつとは深く関わってもしょうがないと思われている男が、高校の時の私のクラスにはいた。

そいつは一言で言えば『ズレてる奴』。

ズレてる奴は阪神ファンで私はヤクルトファンということで、プロ野球好きが珍しい高校だったために、みんながなんとなく避けるズレている奴とも私は普通に野球の話で盛り上がっていた。

今思うと、高校生の私は周りの評判なんて気にせず誰とでもよく話していたもんだと、自分でも妙に感心する。

 

そんな私でもズレてる奴を擁護できなかったしょうもない行動がある。

 

そのズレてる奴は、別にデブでもないのに、いつも4・5個のパンを常備していた。

それは常連(可愛い女の子たち)に配る用のパン。

「〜パンちょうだいー」と甘い声で女の子たちから声をかけられると、ニヤけた顔で「しょうがないな〜」と言いながらパンを渡すズレている奴。

そしてズレてる奴はこの時がチャンスとばかりに女の子たちに色々話しかける。

しかし悲しいかな。

殆どが彼氏持ちの彼女たちは遠目で見てもすぐに分かるようなあしらい方をしていた。

それでも必死に喋り続けるその姿は、滑稽さがまとわりついていて、正常な感覚をしていたら少し体が震えるようなやり取りが白昼堂々と行われていた。

 

何よりもダサいのが、女の子たちがいなくなった後のことである。

そのズレてる男は毎回自慢するように、

「ここにあるパンは万引きしてきた」

と私に公言していた。

 

それが嘘なのか本当なのかは今となっては確かめようがない。

ただ、高校生にもなって万引きを自慢するという社会不適合者か、虚栄にまみれた見栄張りの2択なだけ。

ああ、なんてあほくさい話なのか。

どちらに転んでもクソみたいなものだ。

もちろんズレてる奴が一番悪いが、貰う方も貰う方だ。

可愛くてスクールカーストが高いとああも図々しくなれるものか、と率直に思った。

それまでの私は、基本的に可愛い子の方が周りにヨイショされることによる余裕があるので性格が良くなり、ブスの方が歪むという派閥に属していた。

だがこの一件により、結局性格は人次第という当たり前の結論に戻った。

成長させてくれてありがとうと言いたい。

 

ある日、深くも考えずに、私はズレてる奴に「俺にもそのパン頂戴」と言った。

すると一瞬間が開き、「お前にはあげれない」と言われた。

「なにそれ。お前は女子にだけ配るパン屋かよ」

平坦な声で私の口からそんな言葉がするりと出た。

その瞬間、その場の空気が固まったらしい。

「……」

何故だか私はその後のズレてる奴の言葉を思い出せないでいる。

ただ何か言い淀んでいたことだけは薄らと覚えているのだが。

 

その時の空気が止まったらしいと書いたのは、実はこの事件のことはそれほど私の印象に残っていないからだ。

同じ教室で見ていた友人たちの方が鮮明に覚えていて、後に「あの時のお前はヤバかった」と私のデリカシーのなさを表す代表的なエピソードとして使われている。

改めて問いたいがデリカシーってなんだ。

なぜみんな、あんなしょうもない現象を見ながら黙っていられるのか。

ズレている奴のことになると、あそこまで触れないように触れないようにしていたのか。

果たして私は踏み込んではいけない領域を犯してしまったのか。

当時の私にはそれらが分からなかった。

 

だけど今なら分かるような気がする。

 

そのきっかけは成人した後の軽い同窓会で卒業して以来初めてそのズレた奴に再会した時のこと。

同級生7〜8人で、酔いも回って2次会にカラオケに来ていた。

卒業して以来、バラバラになった同級生同士がそれぞれの現状を語り合うのは、やはり感慨深い。

だが同時に、その場には謎の緊張感が満ちていて、いくつかのグループが重なり合ったその場は、強引にまとめる平時なら少しうざがられるタイプの人間を求めていたが、運悪くその場にはそんな奴はいなかった。

結果、男子は『天体観測』や『小さな恋の歌』などのみんながサビで盛り上がれる歌を無難に歌い、女子はAKBや、ももクロなどを複数人で歌うことで個人が変に目立つことを避けていた。

あまり良くない意味でみんなが空気を読みながらカラオケに勤しむ、楽しいはずだけどどこか気疲れするそんな空間がそこにはあった。

私も席を外そうか悩んでいたが、苦痛というほどでもないし、ここで外すと角が立つというか、なんかこの場を楽しめなかったら、地元の友達とも楽しめない奴に成り下がったと認めてしまう気がして躊躇してしまった。

そんな中で、唯一その場を純粋に楽しんでいたのは、何を隠そうズレた奴だった。

牽制し合うようなマイク争いを制し、そのズレた奴は誇張抜きで、その場でそいつしか知らない女性アイドルグループの歌を低い声と崩壊はしてない程度の歌唱力で堂々と歌った。

今でもその時の映像は頭の中で再現できる。

聞き馴染みのないイントロからの終始盛り上がりのない4分間。

そいつだけが気持ちよさそうだった。

曲が終わってもみんな言葉が出てこない。

その曲に対して共有している情報がゼロなもんで手掛かりがないのだ。

そこそこ長い沈黙の後、誰かが「知らん曲だけど普通にいい歌詞はしていた」と呟いた。

瞬間、「なにそのフォロー」と心の中で突っ込んだ。

その歌詞は別によくある悩みながらも明日に向かって走って頑張れ的な内容だった。

高校生の私なら、「別にそこら辺の安いJPOPもどきのアイドルソングだろ」と言い放っていたのだろう。

だけど知らず知らずのうちに東京の大学生に少しずつ適応していたその頃の私には、純粋なデリカシーのなさはもうすっかりなくなってしまっていた。

それが良いことなのかどうかは今の私にも判断が付かないでいるし、今のところその見通しもたっていない。

 

万引きしてきたと自慢するパンを可愛い女子たちに毎日配っていた高校生のズレてる奴、と、大勢で盛り上がるための儀式としてのカラオケの最中にいきなり個人趣味全開の凡庸な女性アイドルソングを披露する大人になったズレてる奴、種類は変わったかもしれないが、みんなからどこか避けられるような彼の本質は何も変わっていないかった。

変わったのは、私の方か。

なんて少しだけポエミーな自省が飛び出し、いよいよ思考が奥深くの迷宮に迷い込むと、ズレてる奴のあんな姿がなぜか眩しく見えてくるものだ。

………

……でもだからといって、あんな人間になりたいわけではないな。

危ない。危ない。

どうやら、私には冷静に判断できる力がまだ残っているようだ。

最後にふとそんな事を考えた。