本のタイトルと、なぜか創作の苦労。

吾輩は猫である」と「猫伝」。夏目漱石は最後までこの両者で悩んでいたが、弟子との相談の結果、みなさんも知ってのとおり、「吾輩は猫である」が選ばれ、「猫伝」は歴史の闇に消えた(後年ダサい失敗例として名は残しているが)。もし「猫伝」が採用されていたら、かの国民的小説も現在の地位は獲得できていないかもしれない。いくら中身が素晴らしくてもタイトルが平凡だと目立ちにくく、逆にタイトルがオシャレだと中身を読まれなくてもそのタイトルだけで一つの魅力となる(「吾輩は猫である」は中身も傑作だが)。

 

ということで、今回は本の「タイトル」について語っていきたい。

 

一般的に指摘されることとして、「本のタイトルが年々長くなってきている」ということが挙げられる。その顕著な例がネット小説である(ネット小説がそもそも本なのかは一旦置いておく)。あるネット記事によると、一番タイトルが長い小説でなんと、134字もあるらしい。もはやタイトルの概念すら考え直さねばならない状況である。

「ネット小説なんて所詮アマチュアがネットで駄文を垂れ流している代物だから、まともなタイトルもつけられない」と、ネット小説を軽んじて嘲笑することは容易い。ただし、そんな人向けに一応説明しておくと、ネット小説は内容をタイトルで全部紹介しないければネットのゴミの山の中に埋没してしまうという悲しき事情がある。もしかしたら有象無象のハンドルネームを背負った人々は、血の涙を流しながら、己の小説のタイトルをタイピングしているのかもしれない。

 

一方、文豪たちの代表的な小説は、「こころ」「舞姫」「檸檬」「金閣寺」など、タイトルが簡潔な物が多い。このような単語だけのストロングスタイルは、今はあまり目にしなくなった気がする。

 

いきなりだが、例えば私がネットにこんなタイトルの小説を投稿したとしよう。

「群生」。

そして、「群生」という適当に出したお題に対して、3分で考えた設定が次のとおりである。

 

群れて生きることを批判し、もっと個性的に生きろと話す人を馬鹿にしている人物を、逆に冷たい目線で見ている主人公が、ある人物と出会い自分だけの生き方を目指しながらも結局バランスの問題だと気づき、、、。

 

どうだろうか。「群生」というタイトルだけで、この設定が読み取れるだろうか。

何が言いたいかというと、タイトルというのは、読み手のためにつけられるもの、ということだ。読み手にその本を読んでみたいと思わせるタイトルでなければならない。「群生」というタイトルを見て、「これはなかなか興味深いぞ!」となるある種の訓練を積んだ読み手ばかりなら、「群生」もまた素晴らしきタイトルである。しかし、今のネット小説界隈でこんな小説が受け入れられる場所があるだろうか。否、ない(反語)。

 

要は需要と供給の問題である。これぞ市場経済の鉄の掟。

 

と、頑張った中学生が導いたような結論を出したところだが、こんな結論は面白くともなんともない。それっぽい風にまとめただけで内容はすっからかんである。というか、結論でもなんでもなく需要側目線で述べている一つの見方でしかない。

 

私だって、自分で書いた文章は誰かに読んで欲しいと願う小市民なので、読み手のことは考えている。もっと明け透けに言うと、文章で人気者になりたいという気持ちはある。ただそこにこそ、落とし穴がある気がする。

 

私がつけた一番長いタイトルの小説は、悲しいかな、一番人気がなかった(〜〜〜な世界で、自分だけが〜〜〜だった件。黒歴史なので伏せ字で)。また、若者向けを意識した一番ライトなタイトルは、ネット読者の傾向を調査しその傾向に合わせたはずが、あまり評判が良くなかった(「〜〜〜荘は〜〜〜ない」。成功しなかったものの、タイトルが否定形で終わるのは一つの確立したオシャレな形だ今も信じている)

 

一生懸命書いたものが日の目を浴びないのは、すべからく悲しいが、特に、「〜〜〜荘」の惨敗は、普通に悔しい。時間があれば大幅な修正の上で再挑戦したい。

 

では、どんなタイトルが良かったかというと、あまり読み手のことを意識せず、自分が好きだと思ったことだけを詰め込むタイトルである。これはおそらく熱量によるものだろう。自慢になるかはわからないが、これは誰も読まないだろうなと覚悟した、書きたいことを真っ先に書いた初めての長編小説は、そこそこ有名なネット小説サイトのニッチな純文学よりのジャンルで日間1位、週間2位を獲得することができた。

 

実際に色々なやり方でタイトルを決めて、ネットに投稿して気づいたことは、書きたいものが先にあって最後にタイトルを決めるか、それとも「群生」で先程やったように、まずタイトルを先に決め、漠然としたイメージから詳細を決めていくかは、大きな違いがあるということだ。私の場合、前者はそれなりに成功し、後者は綺麗に失敗した。

 

文章を書くに当たって毎日何かしら書くことは重要だと思う。その作業は筋トレに近い。ただ結局無理やりひねり出した文章は自分で読んでも圧倒的に面白くない。まずは溢れんばかりの書きたい欲求が必要だ。一端のアマチュア物書きでしかない私などは、好きなように気楽に続けることこそ一番大事なんだと、世界中で何番目に到達したかもわからないような境地に、遅ればせながら到達した次第だ。

 

「情熱をずっと持ち続けることが才能である」

 

飽き性である私は最近この言葉の重みが分かった。将棋棋士羽生善治も似たようなことを言っていたし、某有名テニス漫画も最後ははじめの頃のテニスが好きで好きでたまらなかったときの境地を思い出し覚醒することでラスボスを倒していた。

 

当初は、好きな本のタイトルを紹介するはずが、いつの間にか「タイトルの付け方」、そして「創作論」の議論に迷い込んでいた。着地点が大幅にズレたことはご愛嬌ということで。

 

大分長くなったため、本のタイトルの分類の話は次の記事に回すことにしたい。

 

ではでは。