面白くなるためのたった一つの地道な方法

純化して見ると、人間はインプットを元にしてアウトプットに励むものだ。面白くなりたければ、面白いものを沢山みて、必死に自分の中で消化する必要がある。

 

天才でない私は、「お笑い」に真摯に向き合い研鑽する日々の積み重ねでしか、人は面白くならないと思っている。

 

注意して欲しいのが、これまで私が述べてきた「お笑い」が、日常的なものではなく、非日常的な、例えば舞台の上でお客にやるような芸事を指して、「お笑い」と呼んでいる事だ。そのふたつは非常に似ているが、明確に違う。

 

日常生活のちょっとした会話で少しとぼけて見せて、知り合いを笑わせるのは、日々の生活に彩りを与えるすばらしい事だと思う。なんなら私個人もそちらを目指しているし、堂々と公言するものではないのだろうが、そう考えて生きている人は案外多いはずだ。だけど、知り合いを笑わすのと、あなたを全く知らない人を笑わすのでは、難易度が全然違う。知らない人の話はただでさえつまらないものだ(この世で最強の笑いは、内輪ネタである)。

 

人を笑わせることに人生を掛けて、人様からお金を頂きご飯を食べようというのだから、芸人という生き物は狂ってなければならない。より正確に言うと、狂っているように見せなければならない。そんな覚悟が必要なのだ。

 

いきなり飲みつぶれた芸人が深夜に語るような熱い芸人論、またはお笑い哲学をぶち立てたが、当然執筆中の私は素面であり、そのことを強調することで事で私自身の狂人ぶりを皆様にアピールしている最中だ。私は自分の手の内を開示することによってネタバラシ的な面白さが生まれないかと期待している。今回もそうだ。だが悲しいことに、いくら試行回数が少ないとはいえ、この手法が上手くいった試しは一度もない。なので今回も失敗なら、実は本当に狂っている訳ではない私は、あっさりこの手法を捨て去るだろう。

 

私の立場を示すと、「勘違いした自称お笑い評論家」である。

 

ここでひとつ声を大にして言いたいのは、私は決してお笑い芸人を礼賛したいわけではないということだ。

 

近年、お笑い芸人側から素人を、特にYouTuberを馬鹿にする発言が数多く見られる。私はその考えは浅いと考える。だって比べられるものではないのだから。敢えて英語でユーモアというが、ユーモアは何も芸人だけの専売特許ではない。ちびまる子ちゃんの作者である、さくらももこ氏の数々のエッセイや、三島由紀夫の「不道徳教育講座」、または夏目漱石の「吾輩は猫である」を読むと、芸人にはない独特のユーモアを感じることができる。

 

私はお笑い芸人がコメンテーターとして世間のご意見代表面して牛耳っている最近の芸能界は嫌いである。もう少し弁えた方がいい。自分の畑違いのことを語る時は、その無知の自覚がなによりも大事だと私は肝に銘じている。だからひろゆきアンチなのだが、それはまた別の話。  

 

まあ畑違いのことを語ると言う点では、長々とこんなことを語っているお前が言うなというご指摘が飛んできそうなところだ。危ない、危ない。明日は我が身。

 

ここまで注意喚起すれば私がお笑い芸人信者であるという誤解も減ると思うが、なんだかんだ言って、私は今の世の中で面白い人の代表例といったら、やはり芸人になるだろうと思っている。

 

なによりも、私は芸事としての「お笑い」を非常に尊敬しているからだ。

 

さて、こんなにも「お笑い」について恥ずかしげもなく語っていると、読者の中には、私に向かって「こんなブログは嫌だ。どんなブログ?」みたいな大喜利を降ってくる危ない人種がまぎれ混んでいる恐れがある。しかし断っておくが、そんな雑な振りをされると、他の大勢と同様、私の頭では思考が止まる。そこから面白い事なんて出てこない。

 

別に私は「お笑い」が出来るとは一言も言っていないし、プレイヤーではないことは自分が一番弁えている。まあ、気が向いたら、ネット大喜利やネタづくりに挑戦してみようかという向上心はあるが、おそらくやらない。私はあくまで「勘違いした自称お笑い評論家」なので。